URL |
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK036196000001 |
木簡番号 |
1 |
本文 |
・/□○〈〉□□〔宿直ヵ〕事/○合□□〔三ヵ〕人∥○/西□〔所ヵ〕〈〉□〔刀ヵ〕自女○川人稲刀自女/封御倉川人山人○采女豊万呂∥・〈〉□○□□○醤殿日下部倉主女○浄人乙女○川人小山○□\○□○□〔富ヵ〕□□〔魚ヵ〕○院内丈部子万呂○語→\○小王女○□〔官ヵ〕舎仕丁国万呂○金見大国○呰人 |
寸法(mm) |
縦 |
(469) |
横 |
52 |
厚さ |
4 |
型式番号 |
019
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出典 |
但馬集成18頁-(105),木研36-196頁-(1)(日本古代木簡選・但馬木-1・木研集報3-22頁-(6)) |
文字説明 |
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形状 |
上欠(折れ)、下二次的切断、左削り、右削り。 |
樹種 |
檜 |
木取り |
板目 |
遺跡名 |
但馬国分寺〈KS5B区〉
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所在地 |
兵庫県豊岡市日高町(旧城崎郡日高町)国分寺字堂ノ前 |
調査主体 |
日高町教育委員会
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発掘次数 |
5
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遺構番号 |
SD01
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地区名 |
MK036196
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内容分類 |
文書
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国郡郷里 |
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人名 |
(刀)自女・川人稲刀自女・川人山人・采女豊万呂・日下部倉主女・浄人乙女・川人小山・丈部子万呂・小王女・国万呂・金見大国・呰人 |
和暦 |
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西暦 |
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木簡説明 |
上端折れ、下端二次的切断、左右両辺削り。檜・板目。表裏とも上部3分の1ほどは腐食が著しい。国分寺内諸施設に勤務する人員を割り当てた記録木簡で、宿直に関わるものであろう。本木簡にみえる但馬国分寺の施設は、「西所」、「封御倉」、「醤殿」、「官舎」および「院内」である。「西所」について、市大樹は「西□〔門ヵ〕」と読みを改め、大衆院の西門で勤務女性は舗設作業に従事したと理解するが(市「国分寺と木簡」須田勉・佐藤信編『国分寺の創建 組織・技術編』吉川弘文館、2013年。以下、市2013)、墨痕は「所」とみて矛盾しない。「西所」は大衆院内の建物と推測される。「封御倉」は、従来「朔御倉」と読まれてきた。今泉隆雄は「西倉」「北倉」(木簡106)とともに倉垣院の可能性が高いとし(今泉「但馬国分寺木簡と国分寺の創建」『古代木簡の研究』吉川弘文館、1998年。以下、今泉1998)、市大樹は大衆院とみた(市2013)。「封御倉」とした場合、古代寺院の「封」倉として、勅封と綱封が知られるが、国分寺に例はない。勅封の場合、東大寺正倉院のように、鎰は「在官」(『東大寺要録』第4諸院章)で、開封には勅使が派遣された。綱封蔵は、東大寺や法隆寺などにみえ、僧綱所が封印をし、みだりに開閉することは許されなかった。こうした倉の開閉、管理に関わるものではなく、むしろ、「封戸」からの貢納物を納めた倉と理解したい。天平宝字8年(764)11月11日太政官符に「国分寺封幷佃稲地子等物」は寺家に収納するとみえ(『類聚三代格』巻3国分寺事)、国分寺には封戸50戸と水田10町が置かれたが(『続日本紀』天平13年(741)3月乙巳条)、これらの倉を「御倉」と称したかはやや疑問である。「醤殿」は醤を醸造する施設。興福寺には、食堂院に井殿・米殿・器殿・大炊殿などとともに、醤殿が置かれていたことが知られる(『興福寺流記』)。神護景雲元年(767)11月12日勅により、国分二寺僧尼の斎食に、米塩のほかに醤・酢・雑菜を与えて優遇するよう命じられている(『類聚三代格』巻3国分寺事)。今泉隆雄は、但馬国分寺では、大衆院に置かれたと推測する(今泉1998)。「官舎」は、木簡106の「官坐」と同じか。『但馬国分寺木簡』報告書では不明とするが、今泉隆雄は、国師あるいは国司の居る場と推測する(今泉1998)。広島県安芸国分寺跡(第16次調査)から、墨書土器「国師院」(1)・「国院」(3)が出土しており、安芸国分寺では、国師の居所は別に院が形成されていた(『安芸国分寺Ⅴ』)。市大樹は、「官坐」は大衆院にあると推測する(市2013)。「院内」は木簡122参照。川人氏は不詳。本木簡の「川人小山」「川人山人」のほか、延暦3年(784)「但馬国気多団毅外従六位上川人部廣井」が献物叙位により外従五位下に叙され(『続日本紀』同年12月乙酉条)、さらに、翌4年川人部廣井は高田臣に改賜姓した(『続日本紀』同年2月甲戌条)。高田は、気多郡高田郷の地名に由来する可能性がある。『和名抄』によると、丹波国桑田郡川人郷が知られ、あるいはこの地名にもとづく氏族か。平城宮跡出土木簡に、川人郷の米荷札(『平城宮木簡二』2272号、『平城宮木簡七』12645号)がみえる。川人(部)の類例に、山背国愛宕郡に「川人秋売」(天平4年(732)山背国愛宕郡計帳断簡。静岡県立美術館所蔵文書・『大日古』一547)、備中国賀夜郡日羽郷穴栗里に「川人部大伴」「川人部麻呂」(天平11年備中国大税負死亡人帳。正倉院文書正集第35巻第5紙・『大日古』二252)がみえる。采女氏は、令制前において宮中の采女を管掌していた氏族。『新撰姓氏録』右京神別上に采女朝臣、和泉国神別に采女臣がみえる。本木簡の「采女豊万呂」のほか、気多郡高生郷に「采女部男庭」(木簡391)、二方郡波大郷に「采女直真嶋」「采女直玉手女」(天平勝宝2年(750)正月8日但馬国司解。東南院文書第4櫃附録第9巻・『東南院』三602号)、平城宮跡出土木簡に、二方郡の「采女直馬弖」(木簡451)、隣国丹後国竹野郡芋野郷の「采女部古与曽」(『平城宮木簡二』2258号)、『続日本紀』に丹後国与謝郡の人「采女部宅刀自女」(宝亀7年(776)閏8月壬子条)がみえるなど、采女氏は、丹後・但馬・因幡への分布が目立つという(佐伯有清『新撰姓氏録の研究 考證篇第四』前掲。290頁)。「浄人」は不詳。『続日本紀』によると、「諸寺衆僧率二浄人童子等一」とみえ(天平17年(745)5月甲子条)、諸寺の僧侶の支配下にあり、寺の清掃その他の雑役を担う身分の低い者で、正倉院文書にも散見する(天平勝宝7歳8月16日元興寺三綱牒。正倉院文書続修別集第9巻第6紙・『大日古』四72ほか)。僧侶に準じて呼ばれたか、地位が低いため氏姓を省かれたかという(直木孝次郎「浄人について」『奈良時代史の諸問題』塙書房、1968年。初出1958年)。今泉隆雄は氏族名の可能性を指摘し(今泉1998年)、市大樹は雑役にあたる地位と理解した(市2013年)。金見氏は不詳。本木簡の「金見大国」は、「金見部大国」(木簡107)と同一人物の可能性が高い。金見氏の人物は、祢布ヶ森遺跡に「金見部宮継」「金見部」(木簡192)がみえるほか、「金見宮身」(天平宝字4年(760)6月25日経所牒。正倉院文書続々修第18帙第6巻第50紙・『大日古』十四406)、「金見乙万呂」(天平宝字6年閏12月29日雇人功給歴名帳。正倉院文書続々修第41帙第7巻第3紙・『大日古』十六181)が知られる。かつて「會見」と読み、「相見采女」(『平城宮木簡一』82号)などにより、伯耆国会見郡会見郷を本拠とする氏とみられていた。日下部は木簡17参照。「官舎仕
丁」の仕丁は、木簡107にもみえるが、今泉隆雄は氏族名とし(今泉1998)、市大樹は寺仕丁と理解する(市2013)。ただし、仕丁のウジナは例がなく不審。『延喜式』によると、「神寺封丁」( 民部省式上63神寺封丁条)、「諸家封戸仕丁」(民部省式上66養物条)がみえるほか、『日本書紀』によると、「若寺家仕丁之子者、如二良人法一。若別入二奴婢一者、如二奴婢法一」とみえる(大化元年(645)八月庚子条)。丈部氏は、軍事的部民であった丈部という部民名にもとづく氏族。丈部の分布は東国に多いという。『新撰姓氏録』左京皇別下・山城国神別にみえる。本木簡の「丈部子万呂」のほか、但馬国にはみえない。山陰道では、出雲国出雲・神門両郡に分布する(天平11年「出雲国大税賑給歴名帳」前掲)。「呰人」は、ウジナを記さないことから、あるいは奴か。天平神護2年(766)8月16日太政官符によると、「国分二寺応レ買レ賤、寺別奴三人、婢三人」とみえ、国分寺には、奴婢が所属していた(『類聚三代格』巻3国分寺事)。
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