| URL |
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO44000175 |
| 木簡番号 |
0 |
| 本文 |
・主殿寮○召殿部/車持豊足○右人/○美/但馬国美伎郡□□郷∥・右件殿部等以今月七日寮庭参向\○天平八年三月三日付\若過科重罪\○〈〉従五位上川邊朝臣知万呂 |
| 寸法(mm) |
縦 |
280 |
| 横 |
38 |
| 厚さ |
5 |
| 型式番号 |
011
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| 出典 |
但馬集成52頁-(454), 城38-22下( 城22-8下(19)) |
| 文字説明 |
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| 形状 |
上削り、下切断、左削り、右削り。 |
| 樹種 |
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| 木取り |
板目 |
| 遺跡名 |
平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
Heijō Capital (Left Capital, Third Row, Second Ward, Eighth Block, Second Row Avenue, Moat-like Feature, Southern Side)
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| 所在地 |
奈良県奈良市二条大路南一丁目 |
| 調査主体 |
奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
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| 発掘次数 |
200
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| 遺構番号 |
SD5100
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| 地区名 |
6AFIUO44
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| 内容分類 |
文書
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| 国郡郷里 |
但馬国美含郡□□郷 |
| 人名 |
車持豊足・川辺朝臣知万呂 |
| 和暦 |
7日・天平8年3月3日 |
| 西暦 |
736(年), 3(月), 7;3(日) |
| 遺構の年代観 |
731-740 |
| 木簡説明 |
上端・左右両辺削り、下端切断。板目。主殿寮が殿部の車持豊足を寮庭に召した召文。天平8年は736年。「主殿寮」は、宮内省被管の小寮で、殿舎および行幸の際の諸施設の維持管理のほか、殿庭の清掃、灯燭・薪炭・湯沐など火に関することを担った。「主殿寮」の「殿部」は40名置かれたが(『職員令』宮内省43主殿寮条)、元慶6年(882)12月以前は、日置・子部・車持・笠取・鴨の五氏から任命されていたという(『日本三代実録』同月25日癸亥条)。車持氏は木簡77(但馬集成14頁-77)参照。「但馬国美伎美郡」は「但馬国美含郡」の意。車持は主殿寮の職掌「供御輿輦」に関わる職名である。殿部と思われる車持氏がみえる木簡に、近江国出身の「□殿部□□位下車持君百足」(『平城宮木簡六』10536号)、「主殿寮御炬」「車持□嶋」(『平城宮木簡三』2850号)、「車持祖麻呂」(『同』2851号)が知られる。主殿頭の官位相当は従五位下であり、「従五位上川邊朝臣知万呂」は、主殿頭の可能性がある。養老7年(723)正月、正六位上河邊朝臣智麻呂を従五位下に叙したとみえ(『続日本紀』同月丙子条)、あるいはこの人物であろうか。また、『続日本紀』によると、主殿頭は、天平3年(731)6月13日に外従五位下引田朝臣虫麻呂が(『続日本紀』同月庚寅条)、天平9年12月23日に外従五位下紀朝臣鹿人がそれぞれ任じられている(『続日本紀』同月壬戌条)。天平年間(729~749)には内長上は4考であり、この間にもう1人主殿頭に任じられたとすれば、それが川邊朝臣知万呂である可能性は否定できない。なお、この木簡の日付に近い3月1日、聖武天皇は甕原離宮に行幸し、5日平城宮に還っている(『続日本紀』同月辛巳条・乙酉条)。あるいは、このときの甕原行幸に関わる資料である可能性も推測できる。なお、「車持豊足」なる人物は、宝賀寿男編著『古代氏族系譜集成』の「車持君、車持朝臣」系図に、奈良時代前半頃の人物で「丹波介正六(位)上」としてみえる。この系図は、鈴木真年の『百家系図』所引「小池系図」によるもので、真偽のほどはなお検討の余地が残るため慎重たるべきではあるが、参考までに指摘しておく。川(河)辺氏は、武内宿禰の後裔氏族の一つで、宗我石川宿禰の子孫という。『新撰姓氏録』右京皇別上に川辺朝臣がみえる。本木簡に「川邊朝臣知万呂」がみえ、隣国の播磨国多可郡蔓田郷にコザト川辺里が知られる(『平城京木簡三』4956号)。平城京跡左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(第200次調査)SD5100出土(以上、但馬集成より)。 |
| DOI |
http://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFIUO44000175
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