| URL |
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ABXHB53000003 |
| 木簡番号 |
1926 |
| 本文 |
・関々司前解近江国蒲生郡阿伎里人大初上阿□〔伎ヵ〕勝足石許田作人・同伊刀古麻呂/大宅女右二人左京小治町大初上笠阿曽弥安戸人右二/送行乎我都○鹿毛牡馬歳七○里長尾治都留伎∥ |
| 寸法(mm) |
縦 |
656 |
| 横 |
36 |
| 厚さ |
10 |
| 型式番号 |
011
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| 出典 |
◎木研2-64頁-(1)( 平城宮2-1926・日本古代木簡選・城2-4上(3)) |
| 文字説明 |
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| 形状 |
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| 樹種 |
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| 木取り |
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| 遺跡名 |
平城宮朱雀門地区
Heijō Palace (Suzaku Gate Sector)
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| 所在地 |
奈良県奈良市佐紀町 |
| 調査主体 |
奈良国立文化財研究所
Nara National Research Institute for Cultural Properties
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| 発掘次数 |
16
,
17
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| 遺構番号 |
SD1900
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| 地区名 |
6ABXHB53
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| 内容分類 |
文書
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| 国郡郷里 |
近江国蒲生郡安吉郷〈江国蒲生郡阿伎里〉・(藤原京左京小治町〈平城京ヵ〉) |
| 人名 |
阿(伎)勝足石・伊刀古麻呂・大宅女・笠阿曽弥安・尾治都留伎・乎我都 |
| 和暦 |
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| 西暦 |
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| 遺構の年代観 |
701-710 |
| 木簡説明 |
過所符(通行証明書)。平安時代の僧円珍の将来した唐の過所符が園城寺に伝来しているが、八世紀のものは、これがはじめて。大宝令では過所符は「便に随い竹木を用う」とされていた(令集解公式令内印外印等事条所引古記)。この木簡は旧下ツ道の西側溝から二片に折れて発見された。年代は後述するように位階の表記と国郡里制(郷里制施行前)による表記法によって、大宝元(七〇一)年~霊亀元(七一五)年の期間のものということができる。下限の霊亀元年は、これ以後過所符に諸国印を捺すよう規定し、更により過所符に竹木を用いることを原則として禁止した年でもある。『公式令過所式』には過所符の書式を定めている。過所符には渡行の理由、どの関を越えてどの国に行くか、官位姓名、年齢、本属、従人(百姓の場合は某国郡里人、姓名年齢)、奴・婢の名、携行品、馬牛匹数特徴、年月日、所司の許可などを記す必要があった。そして、この過所符を請うには、百姓はその本部官司である郡司に、官人は本司に辞・牒を呈する。これを勘査して認めた時は、さらに国司又は京職に送り、決裁を仰ぐことになっている。この場合、過所二通を作成し、一通は職国に留めて案とし、一通を渡行人に交付するのを令の建前とした(関市令)。職国に留めた過所符の案は伊勢国計会帳(延暦二年)にみえる(滝川政次郎「過所考」上・中・下、『日本歴史』第一一八~一二〇号。この中で唐過所、日唐の差、過所の申請・発給などの手続、律令過所制について詳細に考察している)。「関々司前解」という表現は藤原宮木簡にみられる「御前申……」(奈良県教育委員会『藤原宮跡出土木簡概報』木簡番号第三二号)や「大夫前白……」(同三一)と同じ表現である。「関々の司の前に解す」は近江国蒲生郡から京に往来する時、経過する関司に充てたものであろう。当時関が三関以外にもあったことは、たとえば大坂・竜田山の関(日本書記天武八・一一)や川口関務所など(七九参照)によって確かめられる。過所符提出人の本貫地「蒲生郡阿伎里」は『和名抄』では「安吉」と表記しており、東寺文書でも「蒲生郡安吉郷」(平安遺文一-二三九号)とみえる。「阿伎勝足石」はこの地方に勢力をもっていた一族であったことが後世の史料からわかる(続日本後紀承和七・九・壬辰、宇野茂樹「近江国阿伎里阿伎氏続について」『史迹と美術』第三五五号参照)。「大初上」は裏面の笠朝臣弥安の位階も「大初上」と記し、「位」を脱落しているが前述のように大宝令による表記法である。「田作人」は阿伎勝足石の許で田作に従事している意で、彼らが京の笠朝臣弥安の戸の人であれば、これは出作人の史料としては注目できる。「同伊刀古麻呂大宅女」の「同」の意は、(表)の田作人の意か、同姓の阿伎勝の意か決め難いが、いま田作人の意と理解しよう。この木簡で、最も問題になるのは「左京小治町」である。これについては前述の通り、この過所符が八世紀初期という限られた時代のものであるので、左京が藤原京か平城京かという大問題に直面するのである。この過所符と同じ下ツ道西側溝から発見されたものに、「大野里」木簡(一九二八)と「五十戸家」或は「五十家」という墨書のある土器がある。大野里は藤原宮木簡の「所布(添)評大□(野カ)里」と同じものとしてよければ(『藤原宮跡出土木簡概報』一四)、『和名抄』の同郡にはみえない郷名で、遷都前の平城京地域の里名を知る資料として注目される。「五十戸家」は五十戸一里制の実施と関係し、五十戸=里と表現して「里家」をあらわしている。したがってこの土器は里家、すなわち郡家に対して里長が行政実務を執った家で使用されていたものであろう。大野里木簡にみられる白米も、あるいは里家に収められたものではなかろうか。平城京造営にともない消滅した大野里を想定してみると、白米貢進札も里家も同時に廃棄され廃絶したということができよう。このように考えると、この過所符にみられる左京小治町は藤原京と考えることが可能であり、その蓋然性は高い。なお、左京小治町を平城京とする説(田村吉永「平城京址発掘木簡の左京小治町について」『大和文化研究』第一〇巻二号)があるが、木簡の年代観からも藤原京と考えるべきであろう。「笠阿曽弥安」は笠朝臣弥安である(朝臣を阿曽と表記する例は万葉集三八四二・三八四三参照)。「送行乎我都」は乎我都を人名(奴の名か)とする考え方もあるが、今は「我ガ都ニ送リ行(ヤ)ル」とよんでおきたい。携行する馬の特徴を記し、最後に「里長尾治都留伎」という過所符発行者の名がみえる。ところで、藤原京に向かうのに過所符をなぜ当地点に廃棄したのであろうか。これを解く鍵の一つとして当時の交通路を考えてみる必要がある(岸俊男「古道の歴史」『古代の日本』五所収参照)。この過所符にみえる渡行者は近江国から東山道沿いに山背国を経て、いわゆる奈良坂を越えて大和国に入ったものと考えられる。過所符が廃棄されていた個所は下ツ道側溝であるが、この下ツ道は南下すれば藤原京に接続する古くからの官道である。近江国からいくつかの関を越え、山背から大和に入る地点におそらく最後の関があったのであろうか。大和国にたどりつき過所符も不必要となって廃棄されたものと考えるのが自然であろう。※「乎我都」を人名とする。(地下の正倉院展(2017年)Ⅰ期より) |
| DOI |
http://doi.org/10.24484/mokkanko.6ABXHB53000003
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