| URL |
https://mokkanko.nabunken.go.jp/cnk/MK014079000302 |
| 木简编号 |
39 |
| 正文 |
禁制六条九里廿椎下田弐段/右田依□〔土ヵ〕野郷出□〔石ヵ〕永社戸口/百姓□〔靫ヵ〕□□□□○執○/○□〔掌ヵ〕人□□□□/○〈〉∥/○延喜六年四月十三日/○民部卿家書吏車持公∥ |
| 大小(mm) |
长度 |
595 |
| 宽度 |
106 |
| 厚度 |
6 |
| 外形编号 |
011
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| 出典 |
但馬集成14頁-(77), 袴狭遺跡(木研14-79頁-3(2)) |
| 文字解说 |
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| 形状 |
上削り、下削り、左削り、右削り。左下半欠。 |
| 树种 |
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| 木纹 |
板目 |
| 遗迹名称 |
袴狭遺跡(1)
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| 所在地 |
兵庫県出石郡出石町袴狭 |
| 调查机关 |
兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
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| 发掘次数 |
3
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| 遗构编号 |
第2包含層
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| 地区名称 |
大坪1区
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| 内容分类 |
文書
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| 国郡乡里 |
土野郷 |
| 人名 |
出石永社・車持公・(藤原有穂) |
| 日本纪年 |
延喜6年4月13日 |
| 公历 |
906(年), 4(月), 13(日) |
| 遗迹的推定年代 |
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| 木简解说 |
四周削り。下半左部の4分の1程度を欠損する。板目。出石郡条里の「六条九里廿(坪)椎下田弐段」を対象とする「禁制」に関わる立札。延喜6年は906年。この木簡は、4月の本格的な田植え以前の時期に立てられている。「六条九里廿(坪)」は、山本の条里復原を参照(山本「袴狭遺跡出土木簡と但馬国豊岡盆地の条里」前掲)。「土野郷」は、『和名抄』の出石郡埴野郷にあたる。「土」の字形は「圡」である。「出石永社」は、但馬国一宮出石神社と関わるか。あるいは、これを人名とみるならば、「出石永社(ながもり)戸口」「百姓靫□□□□」となり、戸主は出石氏で、戸口は「靫(靱)」を冠するウジナ、たとえば靫連、靫負、靫編首、靫大伴などがこの百姓のウジナとなり、この人物が「椎下田弐段」の耕作者と解される。出石氏は、出石一帯を本拠とした地方豪族。本木簡の「出石永社」、「出石公安道」(木簡83(但馬集成15頁-83))のほか、『播磨国風土記』に「伊頭志君麻良比」がみえ(揖保郡広山里条麻打山)、「但馬国出石郡牟呂郷戸主出石部得嶋」の戸口「印伎部国代」が、天平宝字5年(761)に右勇士衛火頭とみえる(2月22日奉写一切経所解。正倉院文書続々修第3帙第4巻第16紙・『大日古』十五27)。「掌人」は不詳であるが、実際にこの木簡を現地に立てた執行人か。「民部卿」は藤原有穂。有穂は、藤原北家魚名(末茂)流で、承和5年(838)生。木簡の年紀の延喜6年当時は、中納言従三位民部卿。同2年正月に中納言従三位に叙任され、翌2月民部卿を兼ね、同7年12月に70歳で薨じるまでこれらの職を帯びていた(『公卿補任』延喜2年・同6年・同7年条)。「書吏」は、有品親王と職事三位以上の家政機関に置かれた職員で、従三位の家には、家令1人、書吏1人がみえ(家令職員令8従三位条)、書吏の官位相当は少初位下である(官位令19少初位条)。車持氏は、乗輿の供進・供奉を職掌とする車持部の伴造氏族。『新撰姓氏録』左京皇別下・摂津国皇別に車持公がみえる。二条大路木簡に、主殿寮殿部の「車持豊足」がみえ、その本貫は「但馬国美伎美郡□□郷」である(木簡454(但馬集成52頁-454))。また、平城宮跡から出土した、但馬国衛士養銭荷札に「車持足月」がみえる(木簡430(但馬集成50頁-430))。これらの資料から車持氏が但馬国に分布することは確実で、本木簡の「民部卿家書吏車持公」は但馬国の有力者である可能性がある(磐下徹「袴狭遺跡出土延喜6年禁制木簡についての一考察」『古代文化』72-2、2020年)。但馬国における院宮王臣家の活動がうかがわれる資料であり、吉川真司は、この木簡が立てられた経緯を、出石郡の富豪の1人が民部卿家に土地を寄進か売進し、但馬国司に立券を求める家牒が発せられるとともに、田頭に他人の所有・耕作を認めない禁制札が立てられたと指摘する(吉川「九世紀の国郡支配と但馬国木簡」前掲)。さらに、延喜6年当時の但馬守が大蔵善行と推測できることをふまえ、禁制木簡の背景に、民部卿藤原有穂、その直属の下僚民部大輔で但馬守の大蔵善行、但馬出身の可能性が高い民部卿家書吏車持公の3者の関係を前提として所領の認定が進められたとする理解も提示されている(山本崇「袴狭遺跡出土禁制木簡と国司」山尾幸久編『古代日本の民族・国家・思想』塙書房、2021年)。 |
| DOI |
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| 图像使用条件 |
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